コンビニスイーツの進化を見くびった老舗和菓子店 創業180年の倒産劇
■江戸時代後期に創業、災難を乗り越えてきた
江戸時代後期に前身の豆菓子製造業が創業されてから、2018年5月31日に自己破産を申し立てるまで184年もの歴史を誇った老舗・花園万頭。
相場の倍の価格で売る戦略で、「日本一高い日本一うまい」饅頭屋として定着する。
さらに戦後間もなく大当たりした看板商品「ぬれ甘なつと」の力で、売上高は平成初期に頂点に達するものの、以降は低迷が続く。
長い歴史の中で、災難に直面しては乗り越えてきた企業が、ついに力尽きてしまった要因とは何だったのか。
ときは江戸時代後期。花園万頭の発祥は、1834年(天保5年)、加賀・金沢城下で石川弥三兵衛によって創業された豆菓子製造の「石川屋本舗」だ。
三代目となった際、破綻時の社長の祖父・石川弥一郎が東京進出を企図し、「石川屋」ののれんをいったん売却。日露戦争後の1906年に別屋号で青山に店を構え、乃木希典大将にちなみ「乃木の月」という菓子を販売し、人気商品になったという。
■1992年をピークに売上が下がり始める
その後、赤坂への移転を経て1929年、工場から出火、火災で店舗・工場もろとも失うが、翌1930年には加賀藩の御用地だった新宿三光町に拠点を移し、近隣の花園神社にちなんで「花園万頭」の製造販売を開始、屋号も「花園万頭本舗」に変更する。
当時の饅頭は1個1銭が相場だったところ、倍の2銭という強気な価格設定で販売していた。ある種のプレミアム感に加え、女性が上品に食べられるようにと配慮された小判形が受け入れられ、「日本一高い日本一うまい」饅頭屋として定着した。
ところが、花園万頭はまたしても困難に見舞われる。
第二次世界大戦の開戦で休業せざるをえず、空襲で店舗・工場を再び焼失、一家は金沢への疎開を余儀なくされたのだ。
だが、弥一郎氏は1948年に営業を再開すると、翌年には「ぬれ甘なつと」を世に出し、大人気を博す。「ぬれ甘なつと」は、北海道産の大納言小豆をグラニュー糖で煮詰めたもので、一時は売上高の約7割を占める看板商品となった。
“東京名物”というこだわりから、当時は首都圏近郊に絞って出店を重ね、5代目社長から6代目社長に代替わりした後の1992年6月期には、売上高約47億円を計上する。しかし、これを頂点に売上は下がり始める。
■おいしくなった「コンビニスイーツ」の脅威
バブル期の設備投資後、土地価格が下がり、負債が増えたことも収益に影響した。
Source: おいしいお
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