人はなぜラーメン二郎を食べるのか?美味い不味いが理由じゃなかった!
ラーメン二郎には、なぜいつも人が並んでいるのか。
その「並んでいる人たち」の気持ちから、ラーメン二郎独特の世界を分析してみる。
ラーメン二郎は、その行列の多さもふくめ、「現代社会」へのある種のメッセージを強く発しているように感じられるのだ。
■唐突に二郎を食べるように…
もともと私はラーメン二郎にはときどき行く(年に2?3回)レベルの客であった。
自分の家の近くにラーメン二郎ができた(引っ越してきた)ときには、かなりこまめにいっていたがもう10年くらい前の話で、そこが閉店してからは(ラーメン二郎には「店長の体力の限界による閉店」が多い)別の店へときどき行くくらいであった。
あまり二郎は、ふらっと行くところではない。事前に「行く」と決めて行くところだ。と私はおもっている。朝に(もしくは前日に)、今日は二郎へ行くのか行かないのか決めておかないと、食べるものの調整がうまくいかない。私はそうである。
二郎に行くのは、それだけでイベントなのだ。ちょっとした旅でもある。
そしてこの2018年の夏、いきなり二郎に通い続けるようになった。
4、5月に数回行ったあと、6月に7軒、7月16軒、8月19軒、9月18軒と、ほぼ連日ラーメン二郎に通いつづけ、本州内の38店舗をまわりきった(半分以上は2回行っている)。残念ながら札幌店だけはまだ行けておらず全店制覇にはなっていないのだが、「本州内の38店舗」は制覇している(関東圏以外では、仙台、新潟、会津若松、京都に店がある)。
二郎は支店ではなく、本店で修行した人が「のれん分け」される店である。それぞれが二郎だ。味はだいたい同じだけれど、細かいところは店によって違う。それはそれでおもしろかった。
二郎好きである“ジロリアン”の端っこのほうには入るだろう。
二郎はかくも中毒性がある。年に2回しか行かなかったら、それぐらいで済む。
ところが、週に2回行ってしまい、また翌週も行き出すと、止まらなくなる。
■「情報」ではないラーメン
行ったことない人に、ラーメン二郎ってうまいのと聞かれたら、「うーん、べつだん、うまいとか、そういうものじゃないだよなあ」と答えてしまう。
答えられた人はだいたい困る。
質問者の中には「繰り返し食べるラーメンはうまいのだろう」という推察しかない。
「ラーメンはうまいかまずかで判断するもの」という価値観を持っているからだ。それはそれでいい。でもラーメン二郎は、うまい・まずいと関係のない地平に立っているのだとおもう。
ラーメンをうまいか、まずいかで判断しなくていだろう、そもそも「うまいものを食べる」ということがそんなに重要なのか、という根源的なことを問いかけてくるのだ。
私はそういう問いかけが、大好きなのだ(勝手に妄想している問いかけなのだが)。
ラーメンは生きるために食うのではないのか。ラーメン二郎からそういうメッセージを(とても勝手に)感じている。
じっさい、ラーメン二郎を食べると、生きてるなあ、という感覚がみなぎってくるのである。
元気になる(ときどき「負けて」不元気になることもある)。
元気になるために食事をするのだ、というメッセージを受け取ってしまう。
二郎のラーメンそのものが健康的だということではない。逆である。かなり不健康そうなものだが、でもそれを食べきるからこそ、なんか、元気になるのだ。うまいものをくったくらいでは、こういう身体の芯から元気になる感覚は得られない。
ただの想い出に終わってしまう。
二郎がもたらす元気は、うまいものを食うよりもっと爽快なのである。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58532
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58532?page=2
ラーメン二郎は、うまいまずいと別の地平に立っている。私がみるかぎり、そこが人気なのである。
グルメ全盛の時代、日本人のほとんど美食家になってしまったのような世の中では、二郎の存在意味はあまり理解してもらえない。二郎にハマればわかる。ハマってもらえないと共感されにくい。とても身体的なものだからだ。言葉で伝わるものではない。
ということは、いまどきの人気のラーメンは、言葉で伝わるものがけっこうある、ということになる。「美味いラーメンという情報」を食べているようなところがあるのだろう。
二郎にハマるかどうかは、1回食べて、そのあとまた食べたい、とおもうかどうか、だけである。食べた直後ではなく、しばらくしてから、なんかあの味、また食べたいな、とおもうことが多い。そういう奇妙な中毒性がある。その「また食べたいな」が来るかどうか、そしてまた行くかどうかで大きく道が分かれる。また食べたいとおもった人だけが二郎に通いだしてしまう。
二郎は言語化できるラーメンではない。 ひたすら身体に響いてくる食べ物だ。ラーメンを頭で食うな、身体で感じろ。そういうメッセージを出しているように感じる。
ドントシンク、フィール!ジロー!
ちょっと宗教じみてきてしまった。
もちろん、二郎にも味のうまい、まずいはある。店によっても違うし、同じ店でも日によって味が違う。実際に、何度か、「あれ? 今日のスープ、調子悪いんじゃね?」とおもったことがある(三田本店でさえおもったことがある)。
ふつうの言葉でいえば、今日はまずいんじゃないか、ということになるが、それは一瞬、頭をかすめる邪念のようなものであって、まあ、いつもと違う感じだけど、いやいやそんなことより食べないと食べないと、とひたすら完食へ向けて邁進する。
邁進してるあいだにいつもとちょっと違う感じはどうでもよくなる。二郎がもっているパワーが強いので、スープの味が少し違うぐらいは、まったくの誤差なのだ。そんなこと気にするほどのことではない。
それが二郎である。
食べ終わったとき、そういえば途中なんか違うなーとおもったけど、でも、まあどうでもいいや、今日も生きてるしなー、とおもえる。
そういうラーメンである。これがラーメンなのか、と言われる由縁でもある。ラーメンではなく二郎という食べ物だ、というのは至極名言だとおもう。
■なぜか宗教じみてしまう
うまい、まずいではなく、私は「強い、弱い」で判断する。
つまり「二郎がもともともってる強烈な味」のその「強さ」をそのまま維持されているか(再現しているか)、弱められているか、というところで判断する。「強い」ところが私は好きである。食べやすくなっていても、二郎らしさが薄いと、あまり楽しくない。
強さは、醤油味が強く、旨み(たぶん化学調味料的旨み)が強く、脂がたっぷりギトギトにのっているところに出る。そこはもう味がどうのというレベルのものではない。
二郎から「いまどきのラーメン事情に対する無言の批判」がこめられているようにおもっている。平成の食事情に対する昭和の苦言でもあり、グルメ社会に対する批判にも聞こえてくる。
ただ、あくまで、私個人の解釈である。
ラーメン二郎が(その大将が)そういう発言をしているわけではない。そういうことは基本ありえない。また、多くいるラーメン二郎好きが、私と同じメッセージを受け取ってるとはおもえない。私は私なりに「ラーメン二郎」の私なりの解釈を述べるまでである。
そのへんも宗教じみている。
仏陀なりイエスなりがいて、彼の行動やメッセージは、受け取ったものによって解釈がちがい、いくつかの派閥に分かれていくのと同じである。おおもとの存在が強すぎで、人によって解釈が違ってくるのだ。それぐらい強烈だということだ。そして、いまでも強烈であり続けている。インターネットの時代になって、よけいに人気が高まった。そういうラーメンである。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58532?page=2
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58532?page=3
正解
Source: メシニュース
人はなぜラーメン二郎を食べるのか?美味い不味いが理由じゃなかった!